ご高覧いただきありがとうございます。
今回は私がアウトプットについて考えていることを語っていきます.。
目次:
アウトプットの義務感に苦しんだ
知識を身に着けるならアウトプットを必ずやりましょうという記事をよく見かけます。私も一時期そう思っていました。
つまり、後から思い出せない知識は無いも同然だという考えです。ずっと頭の片隅にありました。
しかし、読書したらアウトプットしなければという義務感によって、読書=試験勉強のように感じ、教養書を読む気力がなくなっていました。
アウトプットの方法は色々あると思います。読書ノートを付けたり、人に話したり、SNSに書き込んだり。端的に言うと私はこれらが面倒くさいです。
実際に思い出そうとすると「あー、これすら覚えられていないんだ。」ということがよくあります。そう思う度に、本を読んでも意味ないんじゃないかと感じていました。せっかくその分野のことが好きなのに勿体ないですよね。
逆に小説などは忘れても問題ないと思っています。なぜなら、ストーリーに感動したならそれで満足できるからです。
向き合い方
考えていくと、私はただ好奇心を満たしたいから読書をしているのだと分かりました。
○○という専門用語を教科書的に説明したいのではありません。
それらをパズルピースのように組み合わせた結果「人とは何か。」「心とは何か。」という答えのない問いに対してその著者の仮説を大まかに理解したいからです。
私は知識より知恵を求めています。
また、私は権威のある方が言ったから正しい、とかではなくて本の内容を自分の頭で咀嚼してから、初めて納得します。
そういうものだ、では腑に落ちません。そうした私の頑固な性格でも楽しく生きたいので、特に心理学は好きで学んでいます。
私の思うアウトプットの違和感
何かを学んでノートに要点を書く行為が、著者の主張を誤解する恐れがあると感じています。
読んですぐにアウトプットしてしまうと、それについて自分の考えと照らし合わせる時間がなくなってしまいます。
私は新しく入ってきた知識と今までの経験、持論を交わらせることが好きです。育った木の実をすぐに食べてしまうのではなく、色や匂いを嗅いで観察したいのです。
また、紙にまとめた知識を見返すと、どうも薄っぺらいなと感じます。本を1冊読破したなら、数行に収まるはずはありません。
もちろんいくら読んですぐにアウトプット作業をしたとしても全てを思い出すのは不可能です。忘れてしまったことに対して、「あーあ。」と思うことはよくあります。
嫌な出来事は「忘れる」ことによって、人は前に進めると思います。しかし、何かを学ぶこととなると、途端に忘れてはならないと感じてしまう。
まとめ
読書は自由であるべきだと、私は思います。そのためには読破する必要はないし、覚えるために読まなくてもいいのではないでしょうか。
読んでいるときに感じた「この考え面白いな。」「それは言い過ぎじゃないか。」などの独り言を楽しめたのなら、それ以上のステップアップはいらないと思います。
ここが筆者の意見の肝だろう、となるところでも私は「ここも大切なところではないか。」とそれぞれの意見の食い違いがたまにあります。
偉人の理論とは枝葉であり、木の幹こそが自分自身なのです。自分の心無くして学びはないと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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